日本学術会議に関するの問題提起を称賛する―ムシューダ効果でこの国の戦後を議論する契機にー

 恥ずかしながら、学者先生の「名球会」みたいなもの程度の認識でした。日本学術会議なるモノが何をしているのかも、法に基づいた総理大臣の所管する組織だとも知りませんでした。不勉強は、棚に上げて申し上げれば、ことほど左様に、われわれ一般国民にとっては関心のない、また無縁の存在ではなかったのかなと思います。
 当初は、またぞろ「森かけ桜」問題の再演かとうんざりしましたが、日本国の今を、形作っている大人たちの精神構造を洗い出してくれたと称賛したいと思います。「森かけ桜、任期延長」のような本当に下らない話とは違います。これからのこの国のかたちを考えるよい機会となっています。
 「学問の自由に対する国の介入だ」「違憲違法だ」「ヒトラーか」等々、普段は鳴りを潜めている左派の人々が、ここぞとばかり次々に発言をしています。「クローゼットに向かって「出てきなさい!そこにいるんでしょ」と叫ぶと、ゾロゾロと虫が出てくる防虫剤のCMを見る思いがします。任命拒否によって、同会議のみならず、この国の戦後70年間のアカが浮き彫りにされつつあることは、よいことだと思います。

 文科省の調査(2009年)では、大学の教員(学長、教授から助手に至るまで)は、172,026人いるそうです。学術会議の会員の定数は210名ですから選ばれれば、学者の頂点に立つ誉というべきでしょう。真にその研究又は業績が認められ、万人に推されてとまでは言わなくとも、少なくても斯界においては押しも押されもしない人が選ばれているものと思っていました。
 そういう人なら、「選ばれなくて結構」と涼しい顔をしていれば良いものを、本人たちが、記者会見を開いて、選ばれなかったことについて剥き出しで国を非難するとは、なんと浅ましい姿でしょう。あの人たちを「選ばなくてよかった」と多くの主権者たる国民は思ったのではないでしょうか。「選ばれなくてよかった。これからも自由に、「科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させること」に貢献したい。」と喜びの会見をする位の器を持った人であって欲しかった。
 学問の自由は、研究の自由、研究発表の自由、教授の自由そして制度保障としての大学の自治を言うのであって、ごく一部の学者が、学術会議会員に任命されるかどうかを言うのではありません。任命されないことが学問の自由を奪うことであれば、残りの17万人の学者は、学問の自由を奪われている状態ということになります。学術会議の会員にならなくても、自由に研究し、自由に発言すればよいのです。
 「任命拒否=ムシューダ効果」で、この国の抱える難しい問題が、議論され始めています。
 創設当初(昭和25年)の「戦争を目的とする科学の研究に絶対に従わない」声明の呪縛は、現在も多くの科学者を苦悩させ、わが国の科学技術の発展を大きく阻害しています。戦争絶対反対は戦後間もない当時の国民の総意でした。そして今もそうです。
 しかし皮肉なことに、その後70年における世界の科学技術の発展は、終戦直後のように「戦争を目的とする科学」と単純に色分けできるものではなくなっています。「科学技術のデュアルユース」問題です。平和に資する技術が、軍事転用され、軍事技術が人類の福祉に貢献するそのような時代となった今、何が軍事技術なのか、どこまで追えば、軍事技術とされないのか、科学者は日々苦悩して研究しています。例えば、重要な軍事技術であるセンサーの技術なしで、防犯や医療、交通安全、物資の製造、家電に至るまで、生活は成り立たなくなっています。
 終戦直後の偉大な遺物である憲法が想定していた世界をその後の技術革新は遥かに超える世界を創り出しました。終戦直後のイデオロギーのまま化石化した憲法学者等が、その化石イデオロギーを振り回して日本学術会議牛耳り、人類の進歩と国益を阻害している現実が、徐々に見えてきました。日本学術会議の議論は、6人の学者先生の名誉欲問題を化石の皆さんが、違憲だと騒いでくれたお陰で、この国の将来にかかわる問題をやっと国民を挙げて議論出来るのではないかという予期しなかった期待が膨らんでいます。